大河兼任
おおかわ かねとう

山川出版社『秋田県の歴史散歩』から引用



秋田北部の古代史は、当地が律令国家の日本側北端の地であったことから、中
央政府の征夷、開発政策と現地の人々の対応が織り成した歴史でもある。その
対応がただ順応だけでなく、時として反乱のかたちをとったのは当然である。(中略)

当地で反乱を起こした人物が実名で出てくるのは、。中世の冒頭である。大河次
郎兼任(おおかわのじろうかねとう) -湖東部の在地地主- がこれであるが、登場
の仕方がまた「源頼朝への反逆者」とセンセーショナルである。

この兼任の乱は、鎌倉幕府の正史ともいうべき『吾妻鏡』に記されている。
この乱は、源頼朝が平泉の藤原泰衡を滅亡させ東北経営に乗り出した1189年(文
治5年)から準備され、源義経(よしつね)や木曽義仲の嫡男、朝日冠者(あさひかじ
ゃ)の名を語らって同志が募られたという。

翌年の正月、兼任は挙兵した。その軍勢およそ7000、緒戦の相手は男鹿の橘氏
と津軽の宇佐美氏。大方(八郎潟)の氷上を通過中、氷が割れて5000人が水没す
るといった大惨事あるも屈せず連戦連勝。橘公業(当時、秋田の領主)は鎌倉に
敗走して非常事態を頼朝に報告した。

勢いに乗った兼任は隣国陸奥をうかがい、ついには平泉に到達する。その兵1万。
しかし、北上した頼朝の追討軍と遭遇戦となり、大敗を余儀なくされる。
命運尽きた兼任は敗走の途中、樵夫(きこり)の手にかかり殺害される。

こうして、古代東北の残り火は燃え尽きた。それは蝦夷(えみし)と蔑視された東北
人の、中央政府に対する抵抗の歴史の終焉であった。

これ以降、秋田の地は源頼朝によって派遣された地頭によって支配され、中央と
の密接な連携のもとに歩んでいく。
大方(大潟)での遭難は志賀(しが)渡りの悲劇として記録されているが、それを裏
付ける考古資料は未だに発見されていない。


大河兼任の乱(後平泉の役)
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ようこそ都母の館へ・・・・北東北の歴史散歩 から
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奥州に栄華を誇った奥州藤原家も源頼朝の大軍に抗すべくもなく敗れさりました。
文治5年(1189年)9月藤原泰衛が逃亡先で河田次郎に殺害されて、藤原家が
滅亡しました。

同年10月源頼朝が鎌倉に凱旋しております。ところが、この戦塵がまだ覚めや
らない内に新たな戦いがおきました。

文治5年(1189年)12月、秋田県の南秋田郡北部から山本郡南部にかけての
領主(五城目の旧領主?=五城目町大川にいたと推定(国史大辞典))であった
大河兼任が叛乱を起こしたのです。

このときは源家の支配を嫌う平泉恩顧の武士が方々におりましたので、この人た
ちが大河兼任の下に集まりました。
大河兼任は安倍家に繋がる人と言われております(?)。

安倍貞任の弟の安倍正任の4代あとの子孫で、父武嗣と伯父武任は泰衛軍ととも
に討死しております。
大河兼任は蜂起するにあたって使者を南側の由利維平に送って次のように申して
おります。

{古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報いるは、尋常のことなり。未だ主人の敵
を討つの例はあらず。兼任独り其の例を始めんがために鎌倉に赴くところなり。}

兼任はこの由利維平と北側の橘公業に加勢を頼みましたが断られております。

(吾妻鏡)

文治六年正月六日、奥州故泰衛が郎従大河次郎兼任以下、去年窮冬よ
り以来、叛逆を企て、或は伊予の守義経と号して、出羽国海辺の庄に出
でて、或は左馬守義仲の嫡男朝日冠者と称して、同国山北(せんぼく)
に起(た)ちて各(おのおの)逆党を結び、遂に兼任嫡子鶴太郎・次男於
畿内次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉の方に向い、首途(か
どで)せしむ。
其の路は河北・秋田城等を歴(へ)、大関山を越え多賀国府に出でんと疑
し、秋田・大方(大潟)より志加の渡を打融(うちとお)るの間、氷はにはか
に消えて、五千余人たちまちにもって溺死しをわんぬ。天譴(てんけん)を
蒙るか。
ここに兼任使者を由利中八維平が許に送りて云はく、古今の間、六親もし
くは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。いまだ主人の敵を討つの例
あらず。兼任ひとりその例を始めんがために鎌倉に赴くところなりてへれば、
よって維平、小鹿島の大社山毛々左田の辺に馳せ向ひ、防ぎ戦ふこと両
時に及びて、維平討ち取られおはんぬ。
兼任もまた千福(せんぼく)・山本方に向う、津軽に到りて重ねて合戦し、
宇佐見平次以下の御家人及び雑色沢安等を殺戮すと云々。之に依って在
国の御家人ら面々に飛脚を進じ、事の由を言上すと云々。

大河兼任の兄弟は既に鎌倉の御家人になっておりました。今度の叛乱には加わら
なかったようです。

 (吾妻鏡)
文治六年正月七日
去年奥州の囚人二藤次忠季(大河)は大河次郎兼任が弟なり。すこぶる
物議を背かざるの間、すでに御家人となる。よって仰せつけらるる事あり
て奥州に下向す。
途中において兼任が叛逆のことを聞き、今日帰参するところなり。これ兄
弟たりといえども全く同意せざるの由、貞心を顕はさんがためなりと云々。
殊に御感ありて、早く奥州に馳せ向い、兼任を追討すべきの旨、仰せ含め
らるると云々。忠季が兄新田三郎入道、同じく兼任を背きて参上すと云々。
彼等参上の今、始めて聞こしめし驚くによりて、軍勢を發遣せらるべきの
由、その沙汰に及ぶ。盛時・行政等召文を書きて、相模国以西の御家人
に下さる。征伐の用意を存じ、参上すべきの趣なり。

文治元年(1190年)1月、幕府は奥州に所領のある御家人に兼任討伐の出動
命令を出しております。

 (吾妻鏡)
文治六年正月八日、奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の
大将軍は千葉介常胤、山道は比企籐四郎能員なり。
 而して東海道岩崎の輩は、常胤(千葉)を相待たずといえども、先登(せ
んとう)に進むべくの由、申請するの間神妙の旨仰せ下さる。よって彼の輩
者、奥州の住人たりといえども、弐(二心)存ぜざるか。各隔心(きゃくしん)
無く之を相具して、合戦を遂ぐ可くの趣、今日飛脚に付して、奥州の守護御
家人等の許(もと)に仰ー遣さると云々。
このほか近国の御家人結城七郎朝光以下、奥州に所領あるの輩において
は、一族等に同道すべきの旨を存ぜず、面々にいそぎ下向すべきの由、仰
せ遣はさると云々。

同年2月、大河兼任は一族郎党:七千余騎を集め、山北(せんぼく)に決起します。
河北・秋田城を落として大関山(または有耶無耶の関、山形県と宮城県の県境?)
を通過して多賀城を狙うと見せかけます。

意気揚々と秋田大方(八郎潟?)に集結しております。ところが、その志加の渡(志
賀渡=しがわたし?)を越えるときに湖の氷が割れてあわれ七千騎は湖のなかへ
飲み込まれてしまいました。

このため、このうちの約五千騎が溺死しております。(このシガには氷という意味もあ
るますから、氷上を渡ったときに、という風にとられることもあるようです。)

この痛手を被った大河兼任軍ですが、勢力を回復して、男鹿の大社山(または大杜
山=秋田市大森山か?)および毛々左田(秋田市)で 討伐軍とのあいだに戦闘が
おこります。

由利維平・橘公業等の討伐軍は敗れ、由利維平はこのとき戦死しております。
(大河兼任と由利維平とは小鹿島で戦って由利維平が戦死したというのもあり
ます。(本朝通鑑))

大河兼任軍はこのあと南下しないで、津軽に北上していきます。そして、勢いのま
まにそこに赴任したばかりの御家人の宇佐見実政(平泉攻略北陸道軍を率いてい
た)を討ち取ってしまいます。

(吾妻鏡)
文治六年正月十八日、伊豆山に御ー座(おんおわします=頼朝のこと)に葛
西三郎清重、去る六日の飛脚、奥州自り参す、申して云う、兼任と御家人と
箭(や=矢)合わせ既に訖(おわ)ぬ。御方(みかた=味方)軍士の中、子鹿
島橘次公成(おがしまきちじきんしげ=討たれたのは間違いで、逃げて鎌倉
に行った)・宇佐見平次実政・大見平次家秀・石岡三郎友景等討ち取られし也。

大河兼任は津軽の関東勢を駆逐したため、奥州総奉行葛西清香は鎌倉に注進し助
勢を依頼しております。源頼朝は追討軍を編成しました。

海道大将軍には千葉常胤を、山道大将軍には比企能員を任命しております。
さらに足利義兼を追討使に任命しております。そして、奥州の御家人(結城朝光や藤
原能直等)にも出陣を命じております。

関東からも続々と征討軍が北上していきました。

(吾妻鏡)
文治六年正月一三日
今日奥州の凶徒を鎮めんがために行か向かうべきの由、上野・信濃の国の
御家人に触れ仰せられをわんぬ。
次に上総介義兼(足利)、追討使として発向す。

一方、津軽を制覇した大河兼任の軍は平泉の残党を集めて、一万の軍勢に膨れ上
がっております。大河兼任は南下を始め、陸中(岩手)にはいって、平泉を占拠して
磐井から栗原郡(宮城県)に布陣します。
ここの一迫(いちのはざま)で、足利義兼等の追討軍と衝突しました。

(吾妻鏡)
文治六年二月一二日、
發遣の軍士ならびに在国の御家人等、兼任を征せんがために、この間奥州
に群集す。おのおの昨日平泉を馳せ過ぐ。泉田に於いて凶徒の在所を尋ね
問ふのところ、兼任一万騎を率し、すでに平泉を出づるの由と云々。よって、
田をうち立つ。行き向ふの輩、足利上総前司(義兼)・小山五郎(宗政)・同
七郎・葛西三郎(清重)・関四郎(俊平)・小野寺太郎(道綱)・中條義勝法
橋・同子息藤次(家長)以下、雲霞のごとし。こと昏黒に及べども一の迫(は
ざま)を越ゆるに能はず、途中の民居に止宿す。
この間、兼任早く過ぎをはんぬ。よって、今日千葉新介(胤正)等馳せ加わ
り襲い到り、栗原一の迫に相逢うて挑み戦ふ。賊徒分散するの間、追奔す
るの所、兼任なほ五百余騎を率し、平泉・衣河を前に当てて陣を張り、栗原
に差し向ひ、衣河を越えて合戦す。
凶賊北上河を渡りて逃亡しをわんぬ。返し合はすの輩においては、ことごと
くこれを討ち取り、次第に跡を追ふ。しかうして、外ヶ濱(青森市付近)と糠の
部(青森県上北郡)の間に於て、多宇末井(たうまい)の梯(かけはし)あり、
件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞あり。
上総前司(足利義兼)等又其の所に駆せ付く、兼任は一旦防戦せしといえど
も、終に敗北し、其の身は逐電して跡をくらます。郎従等、或は梟首或は帰降す。

この戦いで、大河兼任は衣川に陣を構え、栗原郡で戦いました。結果は壊滅的大敗
北を喫しております。一時は衣川で防ごうとしましたがすでに残兵は500人ばかりに
減っておりました。ここでも兼任軍は敗れました。北上川を渡って北へ逃げていきます。
大河兼任ははるか北糠部・外が浜まで逃げました。
そして、多宇末井(とうまい=兜味)山(青森市の東側?)に籠もります。足利義兼の
軍はこれも破ります。

(吾妻鏡)
文治六年三月十日、
大河次郎兼任、従軍においてはことごとく誅戮せらるるの後、ひとり進退に迫
り、花山(けせん)・千福・山本等を歴(へ)て、亀山を越え、栗原寺に出づ。
ここに兼任、錦の脛木(はばき)を著(つ)け、金作りの太刀を帯(は)くの間、
樵夫等怪しみをなし、数十人これを相囲み、斧をもって兼任を討ち殺すの後、
事の由を胤正(千葉)以下に告ぐ。よってその首を実検すと云々。

最後は、逃げ回って栗原郡(?)の栗原(りつげん)寺で樵夫にあやしまれて、斬殺さ
れております。
大河兼任の主家の仇討ちを計った戦いは夢と消え去りました。

一族郎党の大部分が八郎潟に沈んだあとも戦いを続けるのは無謀なようにおもわれ
ますが、戦うも死・戦わざるも死であってはやむをえません。わずか二か月の戦乱でした。
(吾妻鏡)
文治六年三月廿五日、
兼任、去ぬる十日に誅せらるるの由、奥州の飛脚参じ申す。また、生虜数十人
に及ぶと云々。

この戦いの結果、鎌倉幕府の奥州支配は確固としたものになりました。各地に鎌倉幕府
の御家人を配置して、知行地を与えたのです。そして、この体制は豊臣秀吉の奥州仕置
きまで(もしかしたら明治維新まで?)続くのです。

南部家もこの時に糠部を知行地として貰い受け(異論がありますが?)、奥州の大名とな
っていくのです。

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