おと殿の二人娘

    


昔、三倉鼻の洞穴に、二人の少女と修験さんが住んでいました。いつ、どこからやってきたのか誰一人として知る者はいませんでした。

二人の少女は修験さんを「おとど様」と呼んでいました。 おとど様は昼は遠くまで托鉢に出かけて、夜は読経して暮らしていました。
もとは都の人らしく、言葉が上品で、村の人達はとても気安く話すことができなかったのでした。 

何年か経ちました。

二人の少女は匂うばかりに美しく成長しました。でも、春の花見、夏の夕涼みのほかは、めったに外にでることはありません。
乙女となったこのきれいな二人をひとめ見ようと、しのんで来る若者が次第に増えてきたのです。 

ある日、一人の若者がこの二人を見初めて、いつとはなしに洞を訪れるようになりました。出会いを重ねているうちに二人の娘もこの若者を待ちわびるようになりました。そして、仲むつまじかった二人の娘の間が思わしくなくなってしまいました。
終いには二人の娘が一人の男に求婚したのです。

困り果てた若者は「一晩の内に多くの米を盛った人と一緒になろう」と約束しました。二人の娘は夢中で米を積みました。

次の朝、若者は妹の手を引いて岩場から立ち去ってしまいました。
その後、二人の姿を見送った姉は袂に顔を伏せて、さめざめと泣きつづけました。

それから一夜明けました。まだ朝もやの消えないうちに、漁師が変わり果てた姉の亡骸を引き上げてきたのです。死体は哀れ恨みの米盛りに埋葬され、おとど様が供養しました。

それから何日かたったある日の夕方、一人の女の遺体が引き揚げられてきました。
それは幸福であったはずの妹の死体でした。
妹が盛ったのは米ではなく糠(ぬか)だったのです。だまされた男は妹の不実に愛想をつかして、どこかへ姿をくらましてしまいました。
妹は罪に責められて姉の後を追ったのでした。

妹の亡骸は糠盛りに埋葬されましたが、二人の娘を失ったおとど様もまた病床に伏すようになり、村の人達の介抱の甲斐もなく、この世を去りました。遺体は地蔵盛りに葬られました。

今でも、村人はこの三つの盛りを、姉の米盛り、妹の糠盛り、父の地蔵盛りと呼んでいます。この三つの盛りは三人が住み慣れた窟の中に奉られています。

それ以来、この窟は三座鼻(みくらはな)、または大殿(おとど)と呼ばれるようになったのです。

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