願人踊(3)

一日市の踊り

願人踊

(八郎潟町)

 祭り一色の町で熱演
八郎潟町一日市(ひといち)の商店街から、数10m裏通りに入ったところにある「一日市神社」。一帯は静かなたたずまいで、近くの建物に張られたたさびた金属製の看板が、昭和30年代ごろの街並みへの郷愁誘う。

 南秋地区の統一祭典日に当たる毎年5月5日、神社境内に派手な衣装をまとった、しかも「白塗り」も交じる男たちが集合、エネルギッシュな踊りと寸劇を繰り広げる。およそ250年前から続いているといわれる県無形民俗文化財「願人踊り」の始まりだ。

 願人踊りを構成するのは▽音頭あげ1人▽踊り手4、5人▽唄(うた)い手3、4人。それに歌舞伎「忠臣蔵・五段目」を基にした寸劇を演じる定九郎と与市兵衛。総勢12人ほどになる。
衣裳は派手な長襦袢
衣装が変わっている。寸劇担当の2人を除いて全員が長襦袢(じゅばん)を着る。それも赤、黄色と派手な女物だ。音頭あげは幣束と大きな鈴付きの「豊作札」を持つ。

 踊り手はは前垂れをかけ、襦袢のすそをからげて、小さな鈴が付いた手甲、脚半を着け、さらに頬(ほお)かむりをする。唄い手もほぼ同じ姿になる。

 定九郎、与市兵衛は歌舞伎の舞台から抜け出てきたような、本格的なふん装。白塗りの定九郎はどんぶくに紫の太い帯を締め、長刀差す。与市兵衝は「じっちゃ」とも呼ばれ、メーキャップに凝る。 
 5月5日午前6時。願人踊りの演じ手たちは、願人踊りゆかりの一日市神社にほど近い、一日市コミニティー防災センターに集合する。この日のそれぞれの配役は、この時に決まる。「だれかリーダーということはない。参加できる人それぞれがどんな役をこなせるかで、なんとなく決まる。」と話すのは田中敏裕さん(41)=町役場勤務。

 「その役をこなせる、というのはもちろんだが、定九郎は見栄えがするようにガッチリした人、与市兵衛は小柄なタイプ、とそれなりに基準はある」と与市兵衛を演じたことのある土橋駒喜さん(4l)=同=が続けた。

 この日は願人踊りのほか「子供願人踊り」、さらに子どもが乗って「秋田音頭」を踊る山車も繰り出す。こうした出し物の手伝いを終えてから、自分たちの準備にかかる。当然ながら、準備に時間がかかるのは定九郎、与市兵衛の2人。

 仲間たちに隈(くま)取りをしてもらい、30分ほどかけて仕上げる。 午前9時、一日市神社へ。一行は神社で無事務めを果たせるようにと手を合わせた後、踊りを奉納する。 

 歌い踊るのは「イヤンヤー」「コンノエー」「口上」「オーイナイ」「桃太郎」「伊勢ジャナエ」「メデタナエ」など十種類(曲)。ほとんどの曲名は、歌い出しの文句やはやし言葉から付けられた。
駅前が公演の舞台
 一行はいよいよ、祭り気分一色の町へ出ていく。家々の前で歌い踊る「門付け」を繰り返しながら、JR八郎潟駅を目指す。駅前で寸劇を交えて一通り披露する。町外からの見物客が集まっている。ここが公演のメーンステージでもある。

 踊りの特徴について、保存・継承に務めている一日市郷土芸術研究会の小柳克二会長(67)はこう話す。
「手と足が同時に出る。盆踊りなどを思い起こしてもらえば分かるように、これは普通の踊りと逆。『一直踊(いっちょくおどり)踊り』ともいわれている。「参加する人はまず、歌を覚えることが不可欠」と日中さん。「基本的なパターンはいずれも同じ。だが歌によって『あや』が微妙に違う」と続けた小野良幸さん(34)=町役場勤務=が数曲踊ってくれた。確かに、腕を振ってのアクセントの付け方に違いがあった。 ハイライトとも言える寸劇は「オーイナイ」だけで披露される。
与市兵衛 あー降る雨じゃ降る雨じゃ。雨もよっぽど小降りになってきた。どーれ、松の木の下で一服付けようか。

定九郎 オーイ、オーイおやじどの。さいぜんからオーイ、オーイと呼ぶ声がそなたの耳には入らぬか。コーリヤ オヤジ

と始まり、ユーモラスな掛け合いが展開されていく。

 たくさんの見物客の視線を浴びた顧人踊りの一行は、再び門付けに移る。配役を決めるリーダーははいなかったが、披露する歌の順序、数は一人が取り仕切る。それは「音頭上げ」だ。 「すべて音頭あげの気分次第で決まる。ただ、この場はこの歌で、との判断は必要。自然、経験豊富な人の役回りになる」と、かつて音頭あげを担当した土橋さん。「一人で歌うことも多く、よく通る声であることはもちろん、何よりも度胸がいる」。
 
振る舞い酒で上機嫌
 門付けでは、紙に包まれた花代、そしてお洒が付き物。中には、八郎潟駅前での公演の前に、振る舞われた酒でいい気持ちになってしまう人もいるとか。 昔はウイスキーが出たという。酔っ払った定九郎が刀(刃はないか金属製)で与市兵衛の菅笠(すげかさ)を半分切り下げた、との「武勇伝」も残っている。「今はかつてに比べて飲まなくなった。われわれを待っていてくれる人がいると思うと、そんなには飲めない」と田中さんらはロをそろえた。

 各家の前では、少し踊るだけだが、途中「所望」がかかると、短い曲と長めの曲に寸劇を組み入れて、楽しんでもらう。土橋さんは「こうした家のほとんどが町外からお客を呼んでいて、願人踊りを自慢している。張り切らざるを得ません。」と語る。

 午後4時半ころ、一日市地区の3分の1ほど、約300戸を回ったところで終了となる。昔はもっと遠くまで踊ったというが、酒も手伝って疲労困憊となる。「30-40代ばかりで体力的に統かない。若い人にも参加してほしい」というのか関係者の切実な願いだ。
伝承は町づくりから
祭り気分があふれる5月5日の八郎潟町一日市の街。ささらの音、鈴の音、そして歌声が近付いてくる。赤、朱色と派手な襦袢(じゅばん)を着込んだ願人踊りの一行だ。

 聞こえる歌は「ボーボコ節」、「イヤンヤー」「伊勢ジャナエ」「オーイナイ」など、家々の前で歌い踊られる。
十種類の歌とは違って、踊りに付く歌ではない。一行の行進曲にあたる。

一つ、ふくれたまんじゅうがボーボコ
ニつ、夫婦の約束ボーボコ
三つ、みそ汁すり鉢でボーボコ
四つ、夜酒コなかなかやまないボーボコ
五つ、いたずら間男ボーボコ
と十まで続き「サナエー アー ドッコイ ドッコイ」で最初に戻り、繰り返される。
250年の歴史をもつ
願人踊りの願人とは、山伏・修験者のこと。かつて願人は、伊勢や熊野信仰普及のため、村回りの芸人として各地を巡り歩いたのだった。願人踊りはこうした人たちによって、250年以上前にこの地域伝わったとされる。

 江戸時代中期、羽立(現八郎潟町)の豪農・俳人、村井素太夫が上方へ旅した時に「伊勢音頭を覚えて帰り、これを従来から一日市で踊られていた願人踊りに取り入れた、と伝えられる。 

 歌舞伎「忠臣蔵・五段目」を組み入れ、定九郎と与市兵衛が寸劇を演じる現在の形になったのは、明治初めごろのことらしい。「地域の豪農など金持ちの倅(せがれ)たちが、歌舞伎を豪勢に演じて人気を集めていた。これに加わることのでできない若勢(わかぜ)たちが対抗して踊ったのが今に伝えられている」と、願人踊りの保存・継承に務めている一日市郷土芸術研究会の小柳克二会長(67)。「踊りをダシに一杯飲みたい、というのが一番の目的だったのでないか。無礼講で歌い踊ったものだろう」

 毎年、諏訪神社(現一日市神社)の祭典日である4月27日に踊られていた願人踊りも、時代によってその活動差があった。「一日市村から一日市町になった大正14年発行の町のガイドには、願人踊りが載っていない。当時の町並みや行事を詳しく紹介しているのに」と話す町の人もいる。

 戦後は、世情の混乱などから衰退の一途をたどる。その長い歴史が途絶えようとした時にできたのが、小柳さんも役立メンバーとして加わった研究会。17年のことだった。

 「それまでは有志たちが誘い合っての実施で、参加する人数も演じる人の祭典日の都合次第。組織作りを通じて、参加者の確保や連絡の徹底、後継者づくりに取り組み、願人踊りを後世に伝えたいと考えた」と小柳会長は振り返る。

 40年ころには、心強い身方が現れる。町青年会が願人踊りをバックアップに名乗り上げたのだ。「郷土芸能の保存・伝承を活動の一つの柱に据えたと聞いている」と話すのは、長年参加している田中敏裕さん(41)=町役場勤務=と土橋駒喜さん(41)=同 。

 2人は青年会に入り、47年ころ願人踊りのメンバーに加わった。「結構先輩たちに強引にに誘われたように記憶している」と2人は顔を見合わせた。「でも当時は、青年会の会員であれば願人踊りにに加わって当然との雰囲気があった」(土橋さん)という。
 
奔放さ楽しいと絶賛
 この2人がメンバーになった前後、願人踊りは特色ある大道芸として脚光を浴びるようになる。46年、秋田市の竿灯祭り出演。同年12月には東京・国立劇場で開かれた第13回民俗芸能公演に出演し「その奔放さが楽しい。農民のエネルギーが躍動している」と絶賛された。同行した小柳会長は「舞台裏で新聞、雑誌の取材に追われた」と懐かしむ。

 48年12月には、県無形民俗文化財に指定された。ところが、その後、若者が就職や進学で町を離れる傾向が加速して青年会に加わる人が減少、青年会の活動も衰退していく。連動して、願人踊りに加わる青年も少なくなっていった。

 現在、願人踊りに参加する人は、田中さんら役場職員の他、大工、会社社長などバラエティに富む。が、年齢は30-40代。かつては20代が中心だったことから「高齢化」が目立つ。 「私が青年会で参加した最後の一人。20歳の時だった」と話すのは、町役場勤務の小野良幸さん(34)。「田中さんに目を付けられてしまって」と笑った。

 街に繰り出す願人踊りの一行は総勢12人ほど。参加者自体減っていて、しかもその日仕事がある人は出られない。小野さんもこの5年間、広報係の仕事をして取材に回り、参加していない。「メンバーは自然、踊り手、唄(うた)い手と一人で何役もこなせるようになる」と田中さん、。

 となると、男女平等の世の中、女性に華やかな踊り手として参加してもらってはいかだろう。小柳会長らは「下着である襦袢姿にならなければなて帰り、これを従来から一日市で踊られていた願人踊りに取り入れた、と伝えられる。 

昨年は、こうして踊りを覚えた中学生たちが、大人たちに交じって若々しく躍動感あふれる踊りを披露、観衆の目を引きつけた。

 八郎潟小学校(川上景昭校長、児童558人)では昨年「伝承遊びクラブ」がつくられ、4年生から6年生までの19人が小柳会長から願人踊りや一日市盆踊りの太鼓などを習った。

 こうした活動を通じて願人踊りに関心をもつようになる子供たちも出てくることが期待される。だが、問題は10代後半-20代の若者の参加をどうやって増やすかだ。「それには、町に若者の勤め先を増やすなどの対策が不可欠だ」との声もある。願人踊りの保存・伝承は町つくり・地域振興と連動しているといえそうだ。
(1995.4.16-23秋田魁新報 「民俗文化を継ぐ 11」一日市願人踊 文・飯塚喜市 から)


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