願人踊り(7)


大川の願人踊
お話 浅野嘉左ェ門氏(2004年6月取材)

 今は一日市で願人踊りや定九郎をしていますが、あれは元々大川(五城目町大川)でもやっていたものです。
家に居た、浅野藤吉(とうきち)さんという人が今戸に下男奉公に行って、今戸のひとに願人踊りや定九郎を教えて、今は子供たちがそれをやっているわけです。

 藤吉は八郎潟町の中嶋に家を建てて、今は役場に勤めています。その人が主体となって八郎潟町でも願人踊りや定九郎を教えて今の一日市願人踊りに続いているのが実態なわけです。

 その後、大川ではいつの間にか願人踊りが廃れてしまった。その浅野藤吉さんの要請で「大川の願人踊りをした人や定九郎をした人が一日市に教えに行った」と今90歳の古老の人が話していました。

 当時、大川では、3つに分かれてやっていた。最初は馬に米俵を3俵つけて、馬方節を歌って町内を練り歩いた。その後に願人踊りが続き、その後に定九郎の寸劇が続くという風に、3つにはっきり分かれてやっていた。

 先に馬を連れた3人が歩き、所々の家に寄っては馬方節をうなってお布施をもらって歩いていた。私が小さいときに「俺が馬方節を歌っているのに、おめだ願人の人たちがそんたに早く来たら、俺の歌っこ聞こえねべ」言っていたのを記憶しています。

 (当時)大川では親方衆といわれる20軒くらいの家を門々回って、お布施をもらっていた。でも、今は馬に米俵を乗せて回るということがなくなってしまった。私も「馬を連れて大きい家に入って馬方を歌っている姿」を鮮明に覚えています。3点セットとなって行われた行事でした。

 その時、歌を歌った方が国鉄(現在のJR)に入って、今は秋田市に住んでいる。90歳の古老ですが。願人の歌は今と昔とほとんど変わらない歌を歌っていた。大川から今戸まで浅野藤吉さんに願人を習いに行った人もいた。浅野藤吉さんが中心になって願人をやっていたのか、別の人が中心で浅野さんが一緒にやったのかは定かでない。

 下樋口の小船屋さんに下男奉公に行った人が「まま食ったら、これから今戸まで願人習うに行って来る」と言っていたという話がある。

 浅野藤吉さんの息子さんは洋服店を営んでいた。足の悪い人で、もう亡くなった。お孫さんが大工さんをしていて、小林ガラスの向かいに住んでいます。昔のことなので覚えているかどうか。

 大川で願人踊を開催したのは4月25日の神社のお祭りの日でした。最初に神社に奉納して、大川中を回った。

 大川では盆踊りも願人踊りも青年会にまかせっきりで、村では一切やらなかった。財政的な援助も支援もしなかった。(中略)青年団でやることの難しさは資金の問題の他に、他に仕事を持ちながら運営していかなければならないということ。そうすれば限られた範囲でしか運営できない。

--- 内容については異論を持つ方もいらっしゃるようですが、原文のまま掲載しました ---