石田玲水
いしだ れいすい

年 譜

昭和41年(1908)一日市村(現在 八郎潟町一日市)生まれる。
父渡辺雷治、母サメの7人兄弟の次男として生まれる
祖父 元助は清酒「福禄寿」の醸造元だったが、祖父の代に
醸造の失敗などで家業が傾き親戚筋の五城目町の渡辺家に譲った
父 雷治は一日市村役場吏員
母 サメは畠山源之亟の三女
実家の畠山家は寛文2年(1662)に現在地 一日市48番地に移って
以来住み続く旧家
一日市を中心に活躍した農民運動家 畠山松次郎の伯母にあたる
県議会議員、衆議院議員として活躍した近江谷栄次は弟
大正13年(1924)一日市郵便局勤務
大正14年(1922)一日市郵便局退職 5月船越尋常高等小学校准指導採用
昭和02年(1927)一日市尋常高等小学校勤務、一日市図書館司書兼任
昭和07年(1932)玉川学園教育学部研究生、
昭和08年(1933)金足西尋常小学校勤務
昭和10年(1935)1月、石田てつえと結婚 以後、石田姓となる
秋田市長野下堀反町に住む 10月父死去
昭和11年(1936)俳句誌「白日」を伊藤漱雨とともに創刊
昭和16年(1941)秋田魁新報社入社
昭和19年(1944)一日市に疎開 伊藤漱雨戦死 「白日」の編集発行を引き継ぐ
昭和20年(1945)4月、一日市大火で疎開先が消失、
小柳清宅(後、一日市町長)二階に間借りする


昭和25年(1950)歌誌「寒流」創刊 秋田市築地町に一人住まい 雑草園と名づける
昭和26年(1951)一家、秋田市に同居する
昭和28年(1953)「ミネルバ」創刊
昭和38年(1963)秋田魁新報社定年退職
昭和42年(1967)秋田市文化賞授賞
昭和43年(1968)秋田県文化功労賞授賞、
昭和52年(1977)胆道ガン、一回目の手術
昭和54年(1975)永眠 70歳 秋田市寺町法華寺に眠る

著 書


昭和06年 「書窓ありて」刊行
昭和07年 「南窓静思」刊行
昭和31年 第1歌集「幾朝」出版、「八郎潟風土記」刊行
昭和35年 「秋田県短歌史」刊行、
昭和43年 第2歌集「冬影」出版
昭和46年 「男鹿のうみやま」出版
昭和49年 秋田方言集「ばっきゃ」編集
昭和55年 遺歌集「湖畔」出版
昭和56年 遺句集「春光」出版
歌 碑

昭和35年 秋田市高揚幸町
「刈田越し遠山脈に日は沈み雲に流れて群鴉 はゆくも」
昭和42年 秋田刑務所内
「ふるさとの山川変わりゆかんとも 子を持つ母のこころとわなる」
昭和46年 男鹿半島入道崎
「荒るる海と凪たる海とふたつ見て入道崎の芝生に思う」
昭和47年 山王大通り
「茂りゆくけやき並木に日はあふれ朝夕の道人さきくあれ」
昭和51年 秋田パークホテル2階庭園、屋上
「山川の恵みあまねくめぐらしてこの高層の眺めゆたけし」
「十階のビルより望む大平の嶺のさやけしその春秋の」
昭和52年 大潟村
「水底の藻草も蒼く揺れやまず八郎潟に春来むとして」
昭和55年 墓碑後ろ

平成05年 アキタ・パーク美術館に「冷水館」完成

平成7年、宮越郷平著「石田玲水」から
わがみずうみ


八郎潟は わがみずうみ

わが少年の日の思い出は
その水にあり
その岸べの芹のそよぎに
芦の中の葭切の声に
藻をもぐる魚の群れに
蒼き水底に棲むしじみに


八郎潟は わがみずうみ

われは そのほとりの町に生まれ
少年の日の夢
少年の日の憧れ
少年の日の感傷
みなここに育くまる


年経りて今
わがふるさとの
みずうみを懐えば
春の日の
なごやかな風湖上を吹き
夏の日の輝きに少年の声あり
また打瀬舟の白き帆は
秋風の中にはらみ
真白き雪原に
点々と網ひく漁夫の一群あり


げに 少年の日に
食いたりし
若さぎ、ふな、ごり
白魚のたぐい
今もわが味覚をそそり
わが食卓に
ふるさとの魚ののるとき
血汐たちまち蘇る


朝焼けのみずうみ
夕焼けに染まりし雲の色
雨にけぶりし男鹿の山々よ
四季はその水にあり
四季はその山にあり
四季はその雲にあり


八郎潟は わがみずうみ

水ひろびろとして
飛ぶ鳥は高からず

今日来りて
みずうみのほとりに佇てば
風は岸べの芹をそよがせ
芹をとりて笛をつくり
その笛を吹けば
へょうへょうとして
遥か少年の日に
かえりゆくが如し


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