菅江真澄

すがえ ますみ

真澄は不思議な人である。貴重で厖大な著作を残しながら、その前半生が不明であること、なぜ東北や北海道を旅に生き、故郷に帰らなかったのか、いつも頭巾を放さなかったのはなぜかなど、私たちに多くのロマンをいだかせてくれる。それだけに真澄みの研究は真澄み没後まもなく始まったようである。

石井忠行、真崎勇助、石川理紀之助などの先人がその先鞭をつけ、昭和になってからは、福沢多市などが『秋田叢書』『同真澄集』を発行、真澄の著作を活字本として紹介し、真澄没後100年祭には柳田国男が来秋して真澄研究を秋田県民に呼びかけている。
田口昌樹著「菅江真澄」あとがきから

自分は くにぐにをめぐりあるいて、世の中にある、いろいろな器、いろいろな行事を心にとめ、これを写して親に見せたいと思う。

又、この器や行事を見たことのない友達のためにも、稚ない筆にまかせて、そのかたちのあらましを写し、故郷に持ち帰って絵の

上手な人に画いてもらいたい
年 表

寶暦04年(1754) 三河(愛知県)に生まれる
安永06年(1777) 丹羽嘉言に入門
天明03年(1783) 30歳、故郷を離れ旅に出る 白井秀雄と称す

この日から死去するまでの40数年もの間旅を続ける。

享和元年(1801) 深浦にある この年から白井真澄と記す
天明04年(1784) みちのくの旅『くめ路の橋』『秋田のかりね』
天明05年(1785) 秋田藩 湯沢、横手、角館、阿仁銅山、男鹿半島 津軽藩、南部藩
天明06年(1786) 中尊寺、気仙沼、松島
天明07年(1787) 南部藩、仙台藩
天明08年(1788) 北海道松前
寛政元年(1789) 松前、函館
寛政03年(1791) 長万部、有珠山
寛政04年(1792) 松前、津軽恐山
寛政05年(1793) 40歳、津軽藩
寛政05年(1793)~享和元年(1801)津軽藩内を旅する
享和02年(1821) 秋田藩 合川、藤里、阿仁、森吉、大滝温泉
この年から以降 秋田藩の各地を旅する
文化07年(1810) 『氷魚の村君』から菅江真澄と称す
文政12年(1829) 角館町神明社神職鈴木家にて永眠 76歳

1988年田口昌樹著「菅江真澄」から
文政11年(1828)75歳の自画像とされる
能代市杉本家蔵

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