蓑虫山人

(みのむし さんじん・・・せんにんと読む人もいる)


蓑虫山人
明治28年4月撮影 60歳
天保7年(1836年)美濃国安八郡結村に生まれる(現在の岐阜県)本名 土岐源吾

1856年21歳 蓑虫というペンネームを使い始める
1856年23歳 投身自殺を企てた西郷隆盛を助けたという

1877年42歳 東北地方へ旅する
1878年43歳 秋田・岩手・青森に旅する

1879年44歳 青森の旅
1881年46歳 小池村千田平三郎宅に宿す

1886年51歳 日本考古学の先駆者神田孝平氏と接する
1887年52歳 青森・福島・山形・秋田を旅する、小池村千田平三郎宅に宿す

1896年まで毎年のように東北を旅している
1896年61歳 比内町の麓家の宿泊を最後にで東北の旅の終止符をうつ。

1900年65歳 名古屋市東区矢田町長母寺にて永眠す

蓑虫山人が秋田を旅した時は同じ家に滞在している。
扇田の麓家、能代の坂本家、小池村の千田家、大久保の高橋家。

これらの家は姻戚関係にあり、『蓑虫山人』を書いている高橋哲華氏は
その本の中で
「蓑虫山人は、こうした縁故をたどって漫遊の旅をしていたのかも知れない」
と述べている。

業績として残っている物としては

1.東北地方の風物、生活の絵
2.亀が岡遺跡の発掘
3.造園家

常に主張していたことは
「人間というものは古人も今人も何も変わったところはない。唯宇宙と盟合し
宇宙の精霊と相通じると否とにあるのみである。」

高橋哲華著「蓑虫山人」から




八竜湖眺望之図 部分(明治15年前後の制作か 現在の八郎潟を山本町側から描いた絵)


対岳楼 部分(千田平三郎氏の明治時代の自宅展望台)

「蓑虫山人全国周遊絵日記」DIフォト企画制作から転載しました



  


蓑虫山人の描いた秋田

- 県立博物館画集から -


秋田魁新報社2000年5月夕刊 5回連載



1. 羽後国・生保内村入り

秋田市金足の県立博物館で、明治時代に本県を訪れ、考古遺物や風俗などを絵にかき残した蓑虫山人(みのむし・さんじん)の画集「画記行」2冊が公開されている。

県がこのほど購入したもので、蓑虫が本県滞在中に、とう留先の旧家が所蔵していた考古品などをスケッチしたものや当時の本県の風景画が収められている。考古学、民俗学などのほか、秋田の先覚研究にも貴重な資料である、約120図の中から5点を紹介する。

 「蓑虫仙人画記行」と題されたこの画集は、蓑虫山人が陸中国橋場(若手県雫石町)から国見峠を越え、羽後国生保内村(田沢湖町)に至る場面から始まる。

絵の中央に描かれた旅人は蓑虫自身。左端には、終日の暴風雨で疲れを癒(いや)すいとまもなかった旨の一文に、和歌一首が添えられている。

明治27年6月18日と、本県入りした年月日も明記されており、これまで空白だった同年の蓑虫の行動を知る貴重な資料と言えよう。

画面の両わきに、緑に染まった落葉広葉樹林下の断崖(だんがい)と、立ち込める霧を配した、蓑虫ならではの行き届いた風景描写で、間断なく吹き付ける風雨に難渋した峠越えを思わせる。

道中ゆえ笈(おい)を背負つての旅姿で、それも59歳と若くはない。もともと「蓑虫」はガの幼虫。その姿が蓑を看た老人に似ていることから、名前が付けられたと言う。

背負っている笈こそ蓑虫の旅装の象徴であり、翌明治28年に比内町で旅装を解いた時、還暦の記念に自画像一幅を添え徳栄寺に納めたとされているものであろう。

ふる雨も なにいとうべき めぐみえし 国にふたたび といて来る身は


末尾に詠み込まれたこの一首から、嵐をもいとわず再来した蓑虫の、秋田への思い入れ深い感慨が伝わってくる。
(副館長・渡部紘一)



2. 佐藤初太郎所蔵資料の一覧


絵の右に小さく、明治27年7月15日から18日にかけ、男鹿の脇本小学校にて佐藤初太郎が収集した考古資料を一覧したときの場面、との記述がある。

中央の男性と右の蓑虫山人(みのむし・さんじん)との間には合わせて十五段ほどの木箱が積まれ、蓑虫はその木箱の一つをひざに乗せて観察している。

箱の中は石器のようにも見える。

箱のまわりにも土器などが置かれており、画面中央奥には縄文時代中期の円筒土器が、蓑虫の前にば石棒、男性の前には土偶が横たわっている。

描写自体は小さいが、蓑虫の絵がそれぞれの考古遺物の特徴をよくとらえていることがわかる。

この4日間に見た考古遺物は、佐藤初太郎所蔵資料として、別に7ページにわたる写生図がある。土偶、土器、石棒、異形石器などが写され、絵の中央に描かれた円筒土器は男鹿市脇本字飯村出土のものであるようだ。

ところで、佐藤初太郎は中央学会に男鹿半島から出土した考古遺物を紹介するなど、明治時代後半に考古学研究者として活躍した人物である。

初太郎が収集した考古遺物は県立図書館に長い間保管され、その後当博物館に移管になった。今回その遺物と蓑虫が描いたものとが照合され、百余年たった今、再会したことになる。
(学芸課長補佐・庄内昭男)



3. 狐森遺跡の発掘風景


明治27年7月、男鹿を巡った蓑虫山人(みのかし・さんじん)は南秋田郡に入り、8月15日には八郎潟町の千田敬治宅に滞在した記録が「画記行」に残されている。

翌日の日付で、狐森遺跡(昭和町)を発掘している様子が描かれている。

ヒョウタンと食べ物が載った敷物のそばに、くつろいだ様子の人物が2人、左が千田で右が蓑虫である。 

2人の左には雇用した農夫がおり、スコップを手に砂山を崩している。

敷物の周りには掘り出した土器の底部など、遺物が無造作に置かれている。

絵の左側にある「新関村字狐森トイフ小高キ砂山アリ」という記述から、千田の案内で、現在の昭和町新関狐森遺跡での発掘風景を記録したものであることがわかる。

狐森遺跡は古くから考古遺物が発見されていたが、現在は砂山が削り取られ、畑地となって遺跡は跡形も無くなっている。

ところで狐森遺跡は、今から3500年前の縄文時代後期後半の遺跡として、瘤(こぶ)付き土器の優品が出土していることで知られており、その中の「人面付環状注口土器」(当館所蔵)は国重要文化財として指定を受けている。

この絵の次のページには、表題に譲渡されたという小さな注口土器と、菅原吉郎兵衛所蔵と記載がある「人面付環状注□土器」の左側面と裏側の写生図がある。
(学芸課長補佐・庄内旧男)



4. 八郎潟の徒歩ひき網漁業


蓑虫山人(みのむし・さんじん)の記録には、明治時代の本県における人々の生活の様子が記されており、早くからその民俗的価値が注目されていた。

このたび当館所蔵となった「画記行」にも民俗の分野における貴重な記録が収められている。

この絵に描かれているのは、干拓前の八郎潟で行なわれていた「徒歩ひき網(地元では『かちっぴき』と呼ばれた)」の様子である。

この漁法は図絵上部に記された通り、舟に積んだ網の両端(ひき網)を二人の漁夫がひっ張って魚を捕るのだが、水中を高さ三尺から六尺の下駄(げた)を履き、歩いて網をひく点に特徴がある。

蓑虫はこの様子を「見テ最モ奇ナリ」と表現している。こうした漁法は県内の他地域では類例を見ないが、八郎潟ではゴリ以外にも、フナやワカサギなどにもこの漁法が用いられていた。

ゴリの「かちっぴき」は夏から秋にかけて琴丘町、井川町、昭和町などの湖東部で行われ、昭和10年代から20年代まで続いたといわれている。

この漁については、江戸時代中期以前に藩の許可のもとに行われていたとみる研究成果がある。

蓑虫の絵を見るかぎり、身の丈ほどもある下駄を履いての作業は、さぞや不安定なものであったろうと思われる。

しかし、漁師の中には網をひく2時間ほどの間に火打ち石を使って煙草(たばこ)を吸う熟練の人もいたという。 

(学芸主事・高橋正)



5. 真崎勇助との面談

明治27年7月3日、秋田市旧城公園(現千秋公園)からの眺望を楽しんだ後に真崎勇助宅を訪れ、茶室での談話となった。

蓑虫山人(みのむし・さんじん)と真崎の間でどんな会話が交わされたか資料には記されていない。

しかし、これ以外に描かれた訪問先や会談相手を見ると、長年の夢である″博物館″設立に役立てようと、県内の責重な遺物の所在を真崎に確認した上で、旅程を定めるという狙いがあったようだ。

その後、南秋田郡面潟村(現八郎潟町)の千田敬治、同小泉村(現軟田市会足)の奈良茂など、当時の古石・古物(石器・土器類)収集家と面談し、精力的にスケッチしていることからもそのことがうかがえる。

真崎勇助は「石鏃考」「雲根録」などの著作のほか、神田孝平(蓑虫と同郷の蘭学者)を介して「東京人類学会報」に発表された県内200ヵ所の鏃(やじり)石の所在地の研究で高く評価されており、秋田を訪れる学者、研究家で彼を頼らぬ者がいないという程であった。

「石翁」「石癖頑夫」と自らを号し、周囲から「石コオンツァン」と親しまれていた。

また、菅江真澄の著作の収集家としても知られ、それらを真崎家で見た可能性がある。

蓑虫の絵や記録は真澄に通ずるものがあるように思える。
(学芸主事・児玉知行)

(完)



八郎潟町と蓑虫山人


八郎潟町広報 1999年から

 蓑虫山人(みのむしさんじん)。絵師である。

天保7年(1836)年、美濃国(岐阜県安八町)に生まれた。本名は土岐源吾。

土岐武平司の妾腹の子である。七歳で琵琶湖の、ある寺に預けられた。

 夕暮れなずむ三井寺の晩鐘に幼いときから親しみ湖辺を渡る雁の群を眺めては、母を恋、慕うタベもあっただろうか。
その母は源吾が13歳のときに逝去。源吾が諸国放浪の旅に出たのは、この年であったと伝えられている。

 山人の始祖は土岐定政(1551-97)。安土桃山時代の武将であり、徳川家康の家臣。上野(こうづけ)国・沼田藩主の祖。
土岐明智氏の出身と伝える。

 はじめ美濃に住んでいたが、まだ幼かったので父が戦死したのち、母の生家を頼って三河に移り住み菅沼家のもとで成長した。

 永禄7(1564)年、徳川家康に仕える。だが本能寺の変で主君の織田信長を自殺に追いやった明智光秀と同族であることをはばかって、
名を菅沼藤蔵に改めたという。これには諸説あり、さだかでない。

 柿川の戦いなど歴戦して軍功をあげ、強勇無双の士として知られたが、性質は粗暴であったとか。

 天正18年(1590)年、家康が関東入りした時に1万石を給され、3年後には山城守に転封(転勤)した。
この時点で本姓・土岐氏に復している。

 定政は慶長2年3月3日死去。37歳。東京都品川区の春雨寺に永眠。子孫は幾度かの転封を経て沼田藩・3万5000石の藩主となった。

 明治親政に至って〈帝鑑間詰〉を奉戴、明治17年には頼知が子爵を授けられている。

 なお、室町・戦国時代の土岐守護家は、いずれも鷹の絵にすぐれ、「土岐の鷹」として名高い。末裔の蓑虫山人の血も、その流れを汲んでいよう。

 蓑虫は昆虫ミノガ類の幼虫。体から分泌した糸で枯れ葉や樹皮をつづり合わせて、袋状の巣を作って住む。
その状態で枝にぶらさがったままで冬を越し雄は春になると成虫の蛾になって袋から出るが、雌は袋の中で
一生をおくる。「父よ父よ」と鳴くとの言い伝えがある。(日本大歳時記「秋」)         


 蓑虫の父よと鳴きて母もなし  高浜 虚子

 蓑虫の留守かと見れば動きけり 星野 立子

 蓑虫のきりきり舞の暮れかかる 谷野 予志


 千田平三郎さん(=小池字梨ノ木)と松田兼之助さん(=夜叉袋字中島田)。
明治時代における本町の埋もれた風景と行事。山人が記録した画文をお2方秘蔵されている。

 朝霧につつまれたオランダ屋敷。日がさしそめた頃、笈(おい)を背負った源吾の姿が見えた。蓑虫山人の20歳前後であろうか。
手提げ袋の中には位碑を一基入れて歩いていた。父・武平司、両側に正室こんと側室・なか(山人の実母)の戒名を記していたという。
郷土を心に刻んだ信と親。同行四人。神仏の心を背負って歩いた青年・山人が浮かんでくる。

 鎖国の眠りが幾星霜と続く江戸時代にあって、長崎は日本にとって唯一の西洋文明の門戸であった。古い開港場である。

 源吾が蓑虫山人の雅号を持つようになったのは、この時期。彼は長崎を目指して画僧・日高鉄扇に会って南宋画を学んだ。
東北各地に遺された彼の「寒山拾得」や「達摩」、風景などの屏風が、それを裏づけよう。水墨の奔放なタッチは、かりにほろ酔い気嫌で筆をおろしたとしても、その太い線描の勢いはデッサンの基本ができているからである。

 千田家のはなれ座敷「対岳楼」の絵が、そこに描かれた人物、静物、山水のすべてが中国の画である。山人は、その一つ一つに名前を付けている。
これが山人の絵の特長となる。 また、山水を描くだけではなく、自らモッコを担ぎ鍬をふるって庭園造りにあたったのであった。どこにもありそうな庭園。
それが彼の特長といえば特長といえるだろうか。

 千田家の庭園造りも「対岳楼」の命名も山人の手になるといいたい。(佐竹家別邸「如斯亭」の庭師が造ったとも言われている)

 山人が千田家に滞在したのは明治14年と20年の二度ほど。蓑虫山人。
―彼は階層を超えて、あらゆる人々に歓迎された造園技師でもあったのである。
          
 源吾・蓑虫山人は61歳で故郷に落ちついた。還暦四年後の明治33(1900)2月21日、急に倒れて、それっさり立たなかったという。

 琵琶湖に浮かぶ竹生島。少年源吾は、その竹生島寺に仏弟子として迎えられたらしい。この寺は神亀元年(724)、行基の開山と仕えられる。ものご
ころがついてからの彼は、離れ小島で読経に明け暮れる日常に飽さ足りなかったようだ。画業を身につけて神州日本の風俗を記録したい、西から東へとー。

 だが、安政の大獄の嵐が吹き出した幕末。九州の空の下で日送りをしていた源吾は、すでに18歳。倒幕運動の行方を不安な気持ちで眺めていたに違い
ない。

 幕府追及の手は、京の清水寺・成就院の僧・月照にも伸びてきた。井伊大老免職派の山本貞一郎を近衛家に紹介したためである。
このとき、月照の身の扱いを西郷隆盛が引き受けた。西郷は主君の島津斉彬が死亡したとき、墓前で後追い自殺をしようとしたが月照に引き止められた。
命の恩人であろう。西郷は月照を薩摩に身をかくまった。

 この潜行に薩摩藩は冷たかった。西郷必死の説得もむなしく、月照を、その途中で切り捨てよとの藩命である。失望した西郷は錦江湾に舟を浮かべて酒
宴したのち、月照を相抱いて入水した。まもなく二人は舟に引き上げられたが、月照はすでに絶命していた。この二人を舟に引き上げた寺男・重助が実は
源吾であったという説が近年、その後の資料で有力視されている。

 世の辛酸を味あわされた青年源吾。
―人の世を自分の蓑の中から見つめよう。菅笠と杖。蓑の背に笈を負って描写し続けること40余年。
行年65歳。

 墓碑は名古屋市東区矢田町の長母寺に建つ。(戒名 蓑虫庵遍照源吾居士)。来年は蓑虫山人の百回忌にあたる。
彼の霊魂は宇宙から、やはり笈を負い蓑笠をつけて、山河の旅を続けていよう。

         
  文・久米 道彦(八郎潟町 浦大町 常福寺住職)