頼 三樹三郎
らいみきさぶろう


頼三樹三郎文政8年(1825)京都生まれ。
江戸末期の儒学者頼山陽の三男。

昌平坂学問所、佐藤一斎の門下、
生来の酒好きが災いし暴れ、徳川家を非難したため破門。
北海道、東北の旅に出る。
帰郷後、「真塾」の看板を掲げ師弟の指導にあたった。
大老の井伊直弼を嘲笑したため安政6年(1859)死罪となる。
享年35歳。
この地を訪れたのは弘化3年(1846)とされる

夢 一 幾 鹿 魂 酔 葉 山 飛 何 漁 粘 入 妨 舟 水 洞 少 出 遠 湖 時 柳 模      睡 蒲 糊

「望湖亭」

「望湖亭」の漢詩は三倉鼻の望湖亭で八郎潟を眺めて詠んだ漢詩といわれる

男鹿半島が鉛のように動きの無い湖水の彼方に霞んで見え
柳が生えている岸辺からは釣り舟が二つ三つ 湖上に流れるともなく進んでいく
(さすらいの身である私は)
一杯の酒で しばしの睡りにはいったが
(次第に酔いが回ってきて 自分はかの名高い中国の)
洞庭湖に身を置いている心地になっていくばかりである

八郎潟町史 (安藤英男著「頼三樹三郎」新人物往来社 1974年初版)

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