神社とお寺

神社

名称/場所 祭神 由緒

副川神社
八郎潟町浦大町字小坂45番地
天照大神、
豊受大神、
素戔嗚尊
延喜式内社。

本来は仙北郡神宮寺に置かれたものであるが戦国時代に荒廃し
社殿は失われた。

江戸時代に藩主佐竹義宣公が秋田郡山本郡を治めるため正徳4年
(1714)高岳山に社殿を再興した。

一日市神社
八郎潟町一日市
. 大正3年(1928)、各無格社及び境内社を村社諏訪神社に合併認可、
翌年4月合祀遷座祭を行った。

毎年5月5日お祭りが行われる。
若宮八幡神社

大正3年に全国の神社が合祀した際
一日市神社に合併された

押切村にあったといわれる
三浦五郎 押切城主、三浦五郎盛季を祀った社。
押切城廃城の後、菩提寺石頭院地内に遷し、
その後内殿のまま清源寺に遷された。

清源寺は幾度かの火災に遭っており、神社が焼失した後は
再興されなかったようです。

眼病に霊験あるとのこと。

管江真澄の紀行文『雪の道奥 雪の出羽路』(平凡社 管江
真澄遊覧記) には次のような一文がある。

「左方の押切というところに寺がある。この寺は、浦というところ
からここにうつして、昔は花嶽山石頭寺といった。寺の門外に
祠があり、若宮八幡としてまつってあるのは、三浦義包(よしかね)
の御霊である。・・・五郎義包がしばらく住んだこの押切というところ
に神社を建て、義包の木造を作って三浦五郎の社といい、また若宮
八幡とも称えまつっているということであった。」

諏訪神社
八郎潟町夜叉袋一向堂
建御名方命
往古より神号開基年歴不詳なれども明治5年8月、村社に列する。
境内神社
・神明社祭神
・天照大御神

御前柳大明神
八郎潟町小池
小柳姫  永禄6年9月1日に浦の城主、三浦兵庫守が秋田城之助
(檜山安東)に攻められた、その時奥方は懐胎していて小池
の里に逃げ来ていた。ふたかかえもある。
柳の中に隠れ、ここにて不意に腹を病み出産した。
その場に私が立ち寄った。
 奥方は「私が死んだ後は産の神に祭れば、難産させること
ない。また、3歳なる若殿を私の親里に届け、また、私の死体
を焼き葬りください。」と遺言して自害した。

出産した男子を抱きかかえて家に連れて帰り、自分の子とし
て育てた。
名を甚内とした。燃え残った奥方の錦の上着を2寸ばかりと甚
内の臍の緒と2品を奥方の腹の守りとして仕舞、甚内を世継ぎ
とした。
面潟郷土誌から現代語訳

八幡神社
八郎潟町真坂
誉田別神社 往古より神号開基年歴不詳なれども明治5年6月村社に列する。

鹿島神社
八郎潟町川崎前川原
天照大神
息長姫命
誉田別命
往古より神号開基年歴不詳。
明治42年4月21日 宮花村社八幡神社、
明治44年9月1日前川原無格社神明社を合併する

市杵島神社
八郎潟町夜叉袋中羽立
市杵島比売命 古くから弁天沼の辺にある神社。ミュージカルの
晴天祈願が行われている。

「慶長年中、戸村堰開削成り、弁天柳を水神として
下羽田地村繁盛のため祭れり」
面潟郷土誌
三倉鼻神社
八郎潟町真坂字三倉鼻
神武天皇、神功皇后 明治17年(1884)1月29日落成。
明治14年、明治天皇御巡行に際してご休憩所跡に建立。
現在なし。

中嶋 稲荷神社
八郎潟町中嶋11.12.13区児童館脇
豊受大神 天和2年(1682)12月社殿建立。
浦五郎(押切城主三浦五郎)鎮守伝記在
祭日 2月初午の日 3月末日~4月1日
大正4年に一日市神社に合併せられ、大正7年に改築落成。

八郎潟町史によると、元は押切城に在った稲荷神社を
再建したとある。

隣の社には太平山三吉神社と千手観音のご神体が祀られている。

現在、毎月10日にお祭りが行われている。

お寺

名称/場所 宗派 本尊 縁起

清源寺
八郎潟町
一日市117
曹洞宗
能山派
不明 曹洞宗月泉派花嶽山清源寺と称し、常恒会地の寺格に列している。
開山は補陀寺草菴守端和尚、開基石頭院殿花嶽心公大禅門(盛季公の法名)。
2世光山和尚の建立。

元は石頭院と称したが、佐竹義宣公から「青原石頭」の法語があるか
ら青原寺という名を賜った。

後に火災が続いたためにさんずいを付け清源寺と称した。
(一日市案内 一日市振興会 大正14年)

開山は天正12年(八郎潟町史)

東谷寺跡といわれる寺屋敷に清源寺の前身があったとされ、天正4年
に一日市に移ったとある。

浦城の菩提寺。
(面潟郷土誌)

常福院
八郎潟町浦大町
真言宗新義派 延命地蔵菩薩 前身を東谷寺と称する。森山の付近と伝えられる。

天正年間、浦大町の住人阿部丸が秋田寶鏡院17世快順を招じ
森醫山の別当にした。

浦城の菩提寺の一つ。

陽広寺
五城目町岡本森山下
曹洞宗 釈如来像 開基、安藤兵部(慶長15年 2270年逝去)。

天正年中、軍功により秋田城之助実季より岡本の地を賜るという
記録がある。

明治20年の火災で一切の記録焼失し詳細不明。

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