夜叉袋太郎


永禄五年---。

戦乱の世である。どこにも山賊、野盗がいた。合戦があると陣借りをして、功名をねらう一旗組みとなるが、普段は村々を荒らしまわる強盗である。
ことに秋田郡と仙北境には、通称 火焔の獅子次郎を頭目とする30人ほどの凶悪な一団がいた。 
その中の11人が深夜、夜叉袋を襲った。太郎という怪童のいることは、むろん知らなかったであろう。

夜叉袋のダンナ、太郎の家は規模も別格、土蔵は三戸前、軽子が4人もいた。盗賊には裕福と見えたろう。当然狙われた。盗賊は由来すばやい。風の様に来て、さっと去る。

この夜も襲うのは早かった。家人凶盗の乗り込みと知ったときは、もう遅かった。ギラギラした素槍と軽太刀で一ヶ所に集められ、音もでない。 

しかし、太郎の姿だけが消えていた。

4頭いた馬が引き出され、米、家具などが積み込まれた。引き上げ寸前である。賊は常套手段の焼き働きに出た。ひとりが油類をまいて、松明で火を付けようとする、そのとたん納屋の裏にひそんでいた太郎が突風をまいて襲いかかった。
「ぎゃっ」
濡れ雑巾のようにぼとっと倒れて動かない。太郎の手には太めの薪が一木ある。こんどはのそりしと頭目の御子次郎へ寄った。
「なんだ、てめえは」
獅子次郎は何ごとが起こったか、とっさにはわからなかったらしい。が、いい終らぬ間に、太郎の薪が闇を切った。
「ぐえっ」とまた一声。
手下の連中が(おや、頭目が)と首をかしげている真っ只中へ、さっと割り込むと、薪は生きもののようにおどつた。
一撃のムダもない。瞬きする間に賊の11人はたたき伏せられた。
太郎は一言も発しない。納屋から荒縄を持ち出し、ゆっくり縛りあげた。一人も殺してない。
「?……」
賊たちは(これあ、どうしたことか)といった面もちで、巨大な太郎をふり仰いだ。

「おらあ、夜叉袋にすむ天狗さまだであ。運のねえ泥棒だなあ。だども、このあと近辺へ来ないと約束せば、ごめんしてやる、どうだべ」
太郎は初めてロを開いた。17歳の少年が説教する図である。
「何もかも参った。死にたくはねえ。金輪際約束する。おれも赤倉山の獅子次郎だ。足は洗う助けててくれ」
頭目の獅子次郎は、さすがに悪びれなかった。

「よっしゃ、わがった。さ、行げ。二度と来るな」
太郎は何事もなかったように、もそもそと縄を切った。
「ううむ、たまげたわ。えれえやっちゃ」
獅子次郎は急に魅力を覚えたらしい。去りがたいように何度も振り返った。

このことがあってから夜叉袋を中心に真坂、海老沢、今戸あたりは10里ほどに賊の姿は消えた。また、赤倉山、高杉山、房住山、薬師山などの山塞も引き払われ、湖東一帯は平和な里に変わったという。

20歳、太郎一代の功名を立てる機会が来た。桧山の浅利則祐討ち発向がそれである。
「合戦が見たい」と、下男の三吉を供に安東軍を追い、房沢で参陣届けをした。
太郎に討たれた則祐の首級は桧山の寺へ埋葬されたが、太郎は帰郷すると、屋敷内の特仏堂に宇多国宗を掲げて毎日冥福を祈った。
太郎の則祐の子・辰若丸探しは、それから始まる。
* * * * *
夜叉袋太郎の幼名は伝わっていないが、〝鬼っ子〝と恐れられていた。母の体内に14ヵ月、生まれたとき、既に門歯があり、3ヵ月で歩いたとの伝説がある。
「ダンナの家に化けものが生まれたどや。何の祟りだべ。」村人は袖を引き合った。すべて太郎の超人的な強猛ぶりから出た話しである。

5歳の時、2斗5升の米俵を両手に打ちあげて両親をたまげさせ、7歳で身の丈5尺、鼻の下に黒いものが生えた。
近辺の腕白どころか、オトナも怖れる始末。遊び友達もない。自然ひとりで山狩りや潟漁に親しむょうになった。 
ある夏、八郎潟のほとりで行きずりの野ぶせり(野武士)を難なくたたき伏せ、あらためて村人を仰天させた。

8歳の秋、妙な歩きざまで山から帰宅した。父がいぶかって聞きただしたところ、 
「体のなかで一番じゃまっけなものを削りすてようと刃物をあてたが、痛いので中程でゃめた」という。
陰茎のことである。
父は″手におえん〝 となげき悲しんだ。 

それから3,4日ほどは寝転んでいたが、ふっと姿を消した。間々あることなので家人は気ことめなかったが、その後ふっつりと消息が絶えてしまい、冬がきて年がかわっても現われない。
村では「神穏しにあった」、「天狗にさらわれた」、「いや鬼が人間の姿をしていたのだから山奥の棲家へ帰ったのだろう」などと評判した。 
ところが、当の鬼っ子はちゃんと戻ってきた。9年ぶり17歳、身長6尺を超え、腰囲5尺余の堂々たる体躯である。 
鬼っ子らしく樹下洞穴をねぐらに暮らしていたであろう。
皮膚は渋を塗ったょうに強じんとなり、眼は射すくめるように鋭く、腕や脚は松の古木そっくりだった。

幾分誇張はあろうが、すさまじい風態だったようである。夜叉袋の家にとっては、かけがえのない独り息子である。(姉があり″さつき″といった)

父母は、ますます鬼もどきとなって帰ったわが子にあきれたり、喜んだりしたが、ともかくもと、一日市の神主に頼んで元服させ、名を太郎朋隆とした。

やがてどえらいさわぎ、といっても前述の大手柄をたてて近郷を驚倒させることになる。                       


(新抄あさり軍記・三村雄吉)八郎潟町史
八郎潟町の民話に戻る
このページに直接入られた方はホームページへどうぞ
八郎潟青年者異業種交流会