与謝蕪村句碑について~奥州行脚で立ち寄る~


「月夜の卯兵衛」は蕪村の奥羽行脚中の作品である。現在の南秋田郡八郎潟町を訪れた折に作ったこの作品は短いがまさに名品である。
ウサギのもちつきの自画賛もあるので、筆者は文学碑建立をお勧めしようと思い立って出かけた。
出迎えの車はまっすぐ諏訪神社に向かったが、車を降りた途端、眼前にその碑が立っているのである。
驚いてことばも出なかった。喜びにひたっている筆者の様子を見て、出迎えの人たちも満足の様子である。
昭和56年建立とある。知らなかった。

 蕪村は谷口氏、また与謝ともいい、宰鳥、夜半亭その他多くの俳号画号を持つ。
摂津毛馬村の人で、芭蕪没後23年、享保元年(1716)生まれである。
生家は農家であったが、両親をうしない家産を失ってからは、画俳を志して江戸に出た。
日本橋に俳席を開いていた夜半亭宋阿の門に入ったのは22歳の秋である。

27歳の年、師宋阿が没し、俗化した江戸俳壇にあきたらず、下総結城の友人雁宕(がんとう)のもとに身を寄せることになる。
結城にはすぐれた俳人がいた。
 これから10年ほど地方を放浪し画業に専念していて、奥羽行脚もその旅の一つである。

秋田に来たのは寛保3年(1743)のことで、「月夜の卯兵衛」はこの時の話である。
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出羽の国からみちのくへ向かう途中、山中で日が暮れ、
辛うじて九十九袋(やしゃふくろ)という里に宿を求めた。
夜が更けていくのにゴトゴトと物音が響くので、怪しんで
音のする方へ行ってみると、古寺の広庭で老いた男が
麦をついているのであった。
予もそこいらを俳掴したが月が峰の影を落とし、風が竹群
をわたって朗夜である。
この男は昼の暑さを避けて夜働いているのであった。
名を聞いたら宇兵衛(うへい)と答えた。
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涼しさに 麦を月夜の 卯兵衛哉

という軽妙な文章である。

月明かりが見えるようである。宇(う)を卯(う)と見たてたのも、搗(つ)くを月(つき)に重ねたのもおもしろい。
浪漫、叙情が彼の俳風で、これが享保の主流になっていくわけで、これも時代の流れを見せる作品である。

 このころ師の宋阿のあとを継いだ宗屋が亡くなったので、「俳は余技だ」などと言っておられなくなり、夜半亭を継ぐことになった。
彼は前に述べたように『新花摘』で秋田を紹介してくれた。
そして重ねて「月夜の卯兵衛」で秋田の風土を語ってくれた。
これにはわずか字句の異なるものもあるが、後年回想して書かれたもので、秋田の旅のころは宰鳥と号しており、間もなく蕪村と改めている。

 秋田県内に芭蕉碑は多いが、蕪村碑は見ていなかった。
八郎潟町のこの蕪村碑はありがたい。
ここ諏訪神社がこの文章にある「古寺」のあった所と特定はできないが、ここの地名は「字一向堂」である。
碑を建てる所としては適当な場所であった。

 境内に芭蕉碑、素大碑があり、南面岡(へづらおか)公園にも芭蕉碑、司農碑、子規碑などがあり豊かな文化圏をなす。
蕪村碑は八郎潟町の誇るべき文化財であり、心から敬意を表し賛辞を贈りたい。
『あきた句碑物語』鎌田 宏著 1988年9月無明社発行

月夜の卯兵衛の絵には2種類あると聞かされた。写真は横長のもので、石碑に用いた縦長のものより良いように見えるが、石碑が縦長であるため、現在の縦長のものが原版として用いられたそうである。

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