八郎潟町の史跡、人物、書籍


2010/4/25 更新

史跡 場所 内容

副川神社
そえがわじんじゃ
麓の浦大町から登山。
かなり急勾配の登山道が続く。
約20分ほどで高岳(高岡)山頂につく

風雪のため、以前の鳥居は
破損してしまった。
珍しい塩化ビニール製の鳥居が
建っている
平安時代中期の式内社(しきないしゃ)の一つ。

以前は仙北郡神宮寺にあったといわれるが戦国期に廃絶。
その後佐竹氏により現在の場所に北の守りとして再興された。
もとは三浦盛水の居城である浦城があった場所。
梵天も県内では一番古い。
以前は6月1日に行われていたが、現在は子供梵天だけが行われている。

御前柳神社
ごぜんやなぎじんじゃ
小池農村公園側 御前柳神社の由来が立て札に書かれている
「永禄年間(1558-1569)桧山の安東実季と湊城主友季との同族争いに巻き込まれた
浦城主三浦兵庫守盛永は、実季の大軍に攻められ、討ち死にした。
奥方(松前・島守信広の娘で、名は小柳姫〕は身重の体で5歳になる千代若とともに船で
城を逃れる。小池部落のこの地で急に産気づき、老木の洞で男子を産み腰元7人とともに
命を絶ち、夫の後を追った。*元亀元年(1570〉9月1日、姫18歳の時と伝えられている。
柳のあった所に御前柳大明神があって、安産の神として住民の信仰を集めている。」
(平成7年6月八郎潟町教育委員会)

*現在は1588年頃とするのが有力である。
後に、安永年間(1775年頃)には秋田藩主 佐竹氏の安産祈願所になっている。

夫殿権現
おとどのごんげん
三倉鼻の西側、国道7号線に面した場所

左側の祠は地元の信仰
者が建立したもの。
右となりの石碑が
本来の権現様。
三倉鼻が八郎潟に突き出た岬だったことを物語る洞窟。
貝塚があつたといわれるが発掘がされないまま消失してしまった。
八郎伝説に関わる史跡。龍神八郎に潟を追われた老夫婦のうち夫のほうはここの窟に逃れ、
その妻は蹴飛ばされて対岸の芦崎まで飛んで行ったという伝説がある。
八郎太郎の棲家
〈羽州街道その生い立ちをたずねて、能代工事事務所編〉


二人の美しい姉妹と一人の若者の間の哀しい恋愛物語も残っている。
おと殿さまの二人娘

板碑(いたび)
八郎潟町小池 鎌倉時代から室町時代の初期にかけて造立された石塔婆。
昭和33年の基盤整備のおり出土した物も寄せ集められている。
いずれも風化が激しく年号の判明できるのは数基のみ。

南北朝時代の石碑。秋田郡は北朝といわれる。

落首(おちこべ)
八郎潟町夜叉袋 南北朝時代、南朝に組みした14人がここで斬首されたという

諏訪神社
夜叉袋を北に進むと
右手にうっそうとした樹木が現れる。
ここが諏訪神社。
「寛政10年、1470年信州諏訪本宮より御神像ならびに御室を勧請する」とある

与謝蕪村の句碑や南北朝の板碑がある。

旧羽州街道筋にあったことを忍ばせる古木がすばらしい

秋には銀杏の葉が散り、山吹色に染まる。

与謝蕪村句碑
夜叉袋 諏訪神社境内
前は、もっと境内奥に建立してあったようだ。

1742年27歳の蕪村はみちのくの旅に出ている。
この時に詠んだ句が刻まれている。

「涼しさに 麦を月夜の 卯兵衛かな」

九十九袋(やしゃふくろ)という所で泊まった。夜半ごとごとと音がす
るので古寺の境内に出てみると、宇兵衛と名乗る男が麦を挽いていた。

しばらく句碑ができなかったため蕪村研究家からは残念がられていた。
蕪村句碑の解説(あきた句碑物語から)

正岡子規句碑
三倉鼻(みくらはな)公園
昭和39年建立子規は明治26年6月13日八郎湖湖畔に遊んだ。その夜一日市村に泊まり、
翌朝三倉鼻に上っている。子規の「はて知らずの記」に記録されている。

この時詠んだ句が石碑として建立されている。八郎潟町で最初にできた句碑。

「秋高う 入り海晴れて 鶴一羽」

子規句碑の解説(あきた句碑物語から)

押切村址
押切村址 「村の起源不詳。一日市村誕生の寛文2年(1662年)、一日市村に吸収合併され
押切村は消滅。当時19戸であったといわれている」と書かれている。

碑は水田の中にあり細い畦から眺めるしかできない。

天正16年頃(1588年)湊合戦で浦城が落城した。
浦城主三浦兵庫盛永の一子。
千代若はその後、秋田城之介に罪を許され、ここ押切に押切城を築城したとされている。

明治天皇御座所址
南面岡(へづらおか)公園

三倉鼻公園の東側、以前は後ろに筑紫岳があった
南面公園内明治天皇もこの先の三倉鼻より八郎潟、男鹿半島の景色を眺めたのだろう
今は史跡を示す表示のみが草むらに埋もれている

葭谷地和解記念碑
八幡大堰わき

葭谷地(よしやち)事件の
和解記念碑

大正12年2月18日
明治6年、根元通明ら3人が一日市村の八郎潟側の国有原野を新開地の名目で
秋田県令国司仙吉から払い下げを受けたことが発端となり、その後50年にも渡って
村を二分する大事件が起こった。
一日市村民は代表を県令に送り払い下げ取り消しの陳情を行ったが取り消しは
かなわなかった。このため村民は払い下げを受けた3人から譲り受けることにし、
3人と交渉の結果、譲り受けることになった。
葭谷地は村民235名で組合を作り管理することとなった。
明治19年一日市村で開田した官有地の地代金を県に治めている。
明治22年、町村制が公布され町村が一つの自治体となり葭谷地の共有者が増え、
共有者を47組に編成した。
まもなく共有地を買い占めたものが盛んに開田を始めたため、開田に反対する者と
開田を始めた者との間に争いが起こった。
開田賛成派と反対派の調停は田町村の有識者や県庁、警察を巻き込んだが収集が
付かないまま50年にも及んだ。
大正6年からは反対派の中で土地分配で分裂し和解が不調に終わっている。
大正7年の暮れも押し迫った頃、分裂した反対派の一方が和解に応じた。
他方も和解に応じたため示談が成立。
50年ものながきに渡った争議が終結した。

一里塚
夜叉袋北はずれ 八郎潟町にある、唯一の一里塚。
江戸側の一里塚は井川町の国道7号線沿いにある。
ここは江戸から151里。

三枚橋
夜叉袋と真坂の間
ここは以前、馬場目川の本流が流れていたところで、川幅が広かったために
一度に橋を架けられず三回に分けて架設工事をしたところから三枚橋といわ
れるようになったといわれる。(1998/05中羽立の村井酉二郎氏談)
三枚橋ができる前は、ここに船着き場があり羽州街道はここから船で対岸の
真坂に渡っていたと伝承される。

人物(八郎潟町に縁のある人も含まれています)

+ 人物 出身地 年代 内容 問い合せ先
~江戸 ~1600年
豪族 大河兼任
おおかわ
かねとう
馬場目川周囲 ?-1190 馬場目川周囲に基盤を持つ豪族。藤原泰衡の家臣。
源頼朝の鎌倉幕府に反抗し、反乱を起こす。
一時は宮城県の多賀城近くまで攻め上るが力尽き
頼朝の追討軍に追われ哀れな最期を迎える。
*
浦城主 三浦兵庫守 盛永
みうらひょうごのかみ
もりなが
甲斐 ?-1570? 高岳山にあった浦城城主。千葉氏の後に浦城城主となった。
三浦一族の兄城的な役割をはたしていたのではないかと
推測する人がいる。
現在の五城目町、八郎潟町あたりを治めていた。
檜山安東の家来。檜山、湊安東氏の同族の争いで落城し、自害した。
*
三浦盛永の
奥方
小柳姫
おやなぎひめ
松前、島守信広の娘 1553-1570? 浦城落城の際、小池部落まで逃げ延びたがここで自害した。
墓碑には部落の人の手で柳の木が植えられ、
御前柳神社として安産の神様としてまつられている。
*
押切城主 三浦五郎 浦(八郎潟町浦大町) 不明 幼名、千代若。三浦盛永の息子。浦城落城の最中、逃げ延びた。
後年、秋田城之介に罪を許され、旧領を安堵され、
押切村(現在の八郎潟町一日市付近)に築城を許された。
*
檜山安東氏 安東実季
あんどう
さねすえ
檜山(能代市) ?-1659 湊騒動で勝利し、秋田城之助を名乗る。
浦城などの三浦氏は湊側に寝返ったため、すべて滅ぼされる。
後年、酒田氏の仲裁を受け三浦五郎を許し、押切に築城を許す。
数年後、五郎の臣下の讒言に従い五郎を暗殺するが、
その後相次ぎ不信な事件が続き
五郎の霊を鎮めるために押切城に若宮八幡を建立したとされる。
*
村長 斎藤甚兵衛
さいとう
じんべえ
小池村(八郎潟町小池) 不明 小柳姫を救い、嫡男千代若を助け、次男を養子にしたといわれる。
御前柳神社を管理している。
八郎潟町小池
千田甚之助
江戸~明治 1600~1868
俳人・歌人 与謝蕪村
よさぶそん
摂津毛馬村(大阪) 1716-1783 画家、俳人。
八郎潟町夜叉袋付近に泊まる。諏訪神社に句碑が建立されている
*
実学 小野藤八
おの とうはち
八郎潟町 * 独自の水車を設計し農地の開墾に寄与
佐竹藩から藤八車の称を得る
*
秋田藩家臣 佐竹義路 秋田市? ? 奥方が御前柳で祈願した所、たいへん安らかに出産できたので
神社を建立し鳥居を建てたといわれる。(菅江真澄『ひなの遊び』)
*
地理学 古川古松軒
ふるかわこしょうけん
岡山県 1728-1807 風俗、物産を研究。幕府の巡検史随行として秋田を旅する。 *
学者 菅江真澄
すがえますみ
愛知県豊橋市 ?-1829 三河(愛知県)出身。庶民の生活をありのままに描く旅行記
晩年は佐竹藩の依頼で藩内を調査している
秋田市
菅江真澄研究会
勤王志士 頼三樹三郎
らいみきさぶろう
京都 1825-1859 儒学者頼山陽の第3子。尊王攘夷の志士として処刑される。
1846年23歳の時、三倉鼻に立ち寄る。
*
明治~
昭和20年
1868~1945
旅行家 Isabella L. Bird  イギリス 1831-1904   1878年5月21日に横浜の港に降り立ってから、数人の日本人と日本を旅行した紀行文。
原書は「Urban Tracks in Japan」。
London 
画家 蓑虫山人
みのむしせんにん
美濃国 1836-1900 全国を放浪し、人々の生活風習などを描く。 *
書家 天野翠琴 一日市村
(八郎潟町一日市)
1905/12/01旧姓 畠山節子(はたけやま さだこ) 神奈川県藤沢市
辻堂元町1-9-2
俳人・歌人 正岡子規
まさおかしき
慶応3年
(1867)
松山生まれ
1867-1902 明治26年8月13日26歳の時に一日市村に泊まる。
三倉鼻公園に句碑が建立されている
*
俳人・歌人 石田玲水
いしだ れいすい
一日市村 * 1908/09/25秋田魁新報論壇、寒流、潮汐同人 *
作家 幸田露伴
こうだ ろはん
東京都 1867-1947 明治24年7月に八郎潟を訪れている。「易心後語」 *
作家 菊岡久利
きくおか くり
青森県 1909-1970 劇作家、詩人。本名高木睦男。「アターキスト」に加盟、
少年期から社会運動に参加。1940年「野鴨は野鴨」を発表、
そのなかに八郎潟、一日市についてふれている。
*
政治・経済 千田勇子
ちだゆうこ
八郎潟町
小池
1911年 能代市坂本家より小池千田家へ嫁ぐ。
愛国婦人会で活躍。
*
政治・経済 近江谷井堂
(近江谷栄治)
一日市村 1874-1942 ・1894年、一日市村で郵便局経営畠山三之丞の五男として生まれる。
・(旧姓は畠山留吉。)本名近江谷栄治。
・16歳で土崎港町の豪商近江谷家に養子に入り、栄治を名乗る。
・県会議員を経て、明治37年(1904年)30歳で国会議員となる。土崎港町町長も務めた。
・秋田銀行、土崎信用金庫設立に奔走。
・土崎港築港、旧国鉄土崎工場誘致に尽力。
・明治34年、自費で火力発電所を建設、電気事業にも手を出す。
・「八郎潟独立大築港論」を主張。
・雑誌「種蒔く人」の中心人物。小牧近江は息子。
・昭和17年(1942)、68歳で死去。(秋田魁新報2001-11-27から転用)
*
農民運動 畠山松治郎
はたけやま
まつじろう
一日市村 1897-1945 ・明治27年(1894)12月15日畠山鶴松の四男として一日市に生まれる。
・畠山家は郵便局の経営と不在地主の田畑の管理をしていた。不在地主は辻兵吉。
・東京の暁星中学に学び、山崎今朝弥弁護士らの合同法律事務所に勤務。
 夜は電気関係の夜学に学ぶ。山崎から社会主義思想の影響を受ける。
・大正9年、一日市に帰郷し、赤光会を組織。
・大正10年、土崎版「種蒔く人」の同人となる。赤毛布の筆名で寄稿。
・大正11年、近江谷友治らと秋田労農社を組織。
・大正13年、小作人組合を組織。
・大正14年11月、一日市小作人組合誕生。初代組合長。日農秋田県連合会執行委員長
・昭和11年、五城目医療組合の事務長。
・昭和20年(1945)12月28日 52歳で死去。(1998年秋 JA八郎潟機関誌から)
*
農民運動 近江谷友治 * * ・秋田県農民運動の指導者として活動。
・東京の暁星中学に通い、慶応大学から村井銀行に勤務。
・京都支店勤務中、「種蒔く人」の原稿を依頼され、社会主義運動を再開。
・故郷の土崎商業学校教員になってから畠山松治郎の活動支援を本格的に始める。
*
社会運動 小牧近江
こまき
おうみ
土崎港町 1894- ・本名近江谷駒。国会議員近江谷栄治の長男。
・近江谷栄治は一日市の畠山松治郎の家から出ている。
・松治郎の父鶴松は栄治の兄。
・近江谷友治は叔父、畠山松治郎は従弟にあたる。
・松治郎と小牧、友治は一時共に東京の暁星中学に通った。
・父、栄治とともにフランスに渡り苦学してソルボンヌ大学を卒業。当時の第一次世界
・対戦を間近で見、第3次インターナショナルを体験。帰国後、フランスで学んだ社会
・主義思想を日本に根付かせるため、「種蒔く人」を創刊。
・一日市の赤光会の助力をする。(北条常久著、「種蒔く人、小牧近江」から)
*
農民運動 一ノ関弥太郎
いちのせき
やたろう
一日市村 明治30年- 一日市農民運動の旗手として活動。農協会初代会長。 ビッグスポーツ
一日市
昭和20年~ 1945~
統計調査員 北嶋吉彌 八郎潟町 * 藍綬褒賞受賞 *
初代
一日市町長
小柳 清
おやなぎ
きよし
一日市 * 大正14年一日町町制発足最初の町長
昭和20年一日市大火の後、町長が過労で倒れ再度町長となる
*
初代
八郎潟町長
三戸 富治
さんのへ
とみじ
* * 昭和31年から昭和43年まで3期町長職を歴任 *
2代
八郎潟町長
畠山 太郎
はたけやま
たろう
八郎潟町
昼根
1918- 昭和43年から昭和59年まで4期町長職を歴任 875-2534
3代
八郎潟町長
相馬 榮一
そうま
えいいち
* * 昭和59年から平成4年まで2期町長職を歴任 *
4代
八郎潟町長
北嶋 義則
きたじま
よしのり
浦大町 * 平成4年から平成12年まで町長職を歴任。 *
5代目
八郎潟町長
土橋 多喜夫
どばし
たきお
一日市 * 平成12年秋、出直し選挙で当選、現在に至る。 *
6代目
八郎潟町長 
畠山 菊夫
はたけやま
きくお 
下川原 2008-  平成20年 初当選 *
郷土史研究者 伊藤貞信
いとう ていしん
五城目町
町村*
* 郷土研究の第一人者だった。八郎潟町史著作者の一人。
没後、自宅が炎焼し貴重な資料が焼失した。
*
画家 館岡栗山
たておかりつざん
馬川村
(五城目町)
1897-1978 日本画家・秋田の風土を描いた絵が多い
1933年院展入選、1937年横山大観賞、
1954年河北展文部大臣賞1968年日本芸術院特別待遇
湖畔時報社
018-875-2011
歌・演奏 畠山浩蔵
はたけやま
こうぞう
一日市村 1891-1971 民謡日本一の養育者
中学時代からの趣味の尺八で身を立てた、
1948年NHKのど自慢専属伴奏者、1949年秋田県文化功労者
秋田市旭北栄町
鱗勝寺
タレント 大潟八郎
おおがた
はちろう
一日市村 * 1946年(昭和21年)
 漣楽団(さざなみがくだん)が一日市町に発足。劇団員15名。
最初は演劇同好会として発足した。
佐藤久雄(大潟八郎)と一関幸吉らの喜劇が戦後の暗い社会の中で楽しさと笑いを提供していた。
数年後、漣楽団という名称にあらため、大潟はトランペットを担当していた。
コロンビアから漫談のレコードを出し、漫談や司会をして活躍している。
2010年3月に逝去。83歳
*
レスリング
フリースタイル
柳田英明
やなぎだ
ひであき
八郎潟町
一日市
* 1972年 ミュンヘンオリンピックで金メダル受賞
1970年 世界選手権大会で優勝
オリンピック記念館
ウエイトリフティング
フライ級
斉藤久治郎 八郎潟町 * 1972年 ミュンヘンオリンピック12位 オリンピック記念館
ウェイトリフティング
バンタム級
一ノ関史郎
いちのせき
しろう
八郎潟町 *
1964年 東京オリンピック大会  銅メダル
1965年 世界選手権(テヘラン) 銀メダル
1968年 メキシコオリンピック大会 5位
1963年~1965年まで3回の世界新記録(シニア)
    スナッチ108kg~112.5kgまで更新
    トータル360kg
2006年 読賣書法展 初入選
(2008.8.25 ご本人からご連絡いただきました。感謝)
オリンピック記念館
レスリング
フリー
佐藤 満
さとう みつる
八郎潟町 * 1988年 ソウルオリンピックで金メダル受賞 オリンピック記念館
野球 石井浩郎
いしい
ひろお
八郎潟町
中田
* 1989年 近鉄バッファローズ入団
1994年 打点王
1997年 読売巨人軍に移籍
1999年 千葉ロッテマリーンズに移籍
2003年 西部ライオンズ2軍監督就任
*
後藤光尊
ごとう
みつたか
八郎潟町
中嶋
* 175㎝75㎏ 23歳(2002年3月現在)
2001年 川崎製鉄 - オリックスブルーウェィブ
*

書籍、雑誌、同人誌(私が目にすることの出来た八郎潟町に関するものを中心に集めてみました)

分類 書籍名 著者/初版 内容 発行社
定期刊行誌 八郎潟町広報誌 八郎潟町企画課
毎月発刊
八郎潟町の行事、特集 八郎潟町
ふなっ子 八郎潟図書館編集
毎年2月発刊
八郎潟町に住む小学校中学校の学生を中心にした読書感想、
毎年2月に発行
八郎潟町立図書館
寒鮒会 安田 龍泉 湖東地区の句集.月一回句会がある
場所は ロマンの里
安田龍泉
℡018-875-3231
地方紙 湖畔時報 館岡 誠二
毎週木曜日発行
地方紙、湖東地区の情報を毎週発行 湖畔時報社
℡ 018-875-2011
雑誌 まちが目覚めるとき 二瓶 長記
1994/08/10発行
八郎潟町活性化への取り組み、路上ミュージカルまでの歩み (株)ぎょうせい 03-3268-2141
秋田の伝説 長山 幹丸
1965/02/20出版
仙北郡峰吉川小学校教諭という職務の中で取材した伝説の
記録
自費出版
八郎潟 瓜生 卓造
1962/05/20発行
現場責任者の主人公の眼を通して八郎潟干拓という国の
大事業を描いている
常陸印刷所
秋田 伊藤永之介
1985/07/30発行
秋田文化史 無明舎出版
みちのく
風土と心
高橋 富雄
1967/07/30発行
みちのくの紀行文を残した人物を中心にいにしえの東北を描く 社会思想社
我が家の歴史
小柳家一族の記録
小柳 清
1964/10/10発行
八郎潟に住む小柳清氏が祖父の遺言で書き残した記録 自費出版
菅江真澄 田口昌樹
1988/07/19発行
秋田市の銀行マン。
菅江真澄研究会理事を務める著者が今までの調査をまとめた。
秋田文花出版社
蓑虫山人
隠れたる勤王の志士
高橋 嘉右衛門
1967/09/12発行
著者の自宅(昭和町大久保)に宿泊し、縁の深い蓑虫山人への
思いを込めた記録
洋々社
種蒔く人 小牧近江の青春 北条 常久
1995/07/20初版発行
『種蒔く人』研究を著した著者が発行者の小牧近江の生き様を描いている。
福島県出身、聖霊女子短大教授
筑摩書房
写真集 思い出のアルバム
南秋田郡
無明舎出版 明治大正昭和の写真集、
1981/04/25発行
無明舎出版
018-832-5680
秋田県昭和史
1926-1989
無明舎出版
1989/07/10発行
1926年から1989年までの写真と秋田魁新報社の記事 無明舎出版
歴史書 全国歴史散歩シリーズ
秋田県の歴史散歩
野添 憲治編集 歴史的な背景を持つ風俗、行事、建築物などの紹介 山川出版社
歴史の旅
東国編 関東・東北
亀井 勝一郎編
1965/12/20発行
p227-p240 蝦夷の国、秋田の史蹟
秋田を支配した人たちを中心にした歴史
人物往来社
秋田の歴史 大内 孝夫読売新聞記者
1965/04/29発行
1964年春から秋にかけて読売新聞秋田版に45回に渡り連載された記事 三浦書店
改訂版
秋田の歴史
新野直吉
1989/8/31発行
元 秋田大学学長
秋田魁新報社発行、初版は1982年
秋田魁新報社
秋田「安東氏」
研究ノート
渋谷 鉄五郎
1988/04/01発行
戦国時代、秋田県中央地区を支配していた安東氏を探る 無明舎出版
秋田の豪族
安部・安東・湊氏物語
長岐 喜代次
1988/07/20発行
県立図書館の古文書解読整理研究をしていた著者が秋田の3大豪族を描く 秋田文花出版社
秋田の医師史覚え書き 石田 秀一
1994/02/01発行
秋田市の石田秀一氏が秋田医報に連載していた内容を上下2巻にまとめた 自費出版
続秋田むかしむかし 秋田魁新報社文化部
1967/05/01発行
秋田藩と各市町村の歴史 秋田魁新報社
秋田県婦人生活記録史 秋田県 長谷山 包子
1985/11/25発行
国連婦人の10年を記念して発行 秋田県婦人生活記録史刊行会
小作農民の証言
-秋田の小作争議史-
野添憲治・上枝洋一著
1975/11/20発行
大正13年の小坂鉱山煙害争議に始まる秋田県の小作争議の取材記録。 あきた文庫
資料 秋田県の文化財 秋田県教育委員会
1971/12/10発行
県所在の国指定、県指定文化財の一覧 秋田県教育委員会
新訳 真澄翁男鹿遊覧記 天野 源一
1952/08/15発行
菅江真澄の真澄遊覧記から男鹿の5巻、
八郎潟氷上の漁法を書いた日記全文の現代語訳
男鹿史志刊行会
秋田方言 高橋 熊五郎代表
1929/10/28発行
大正15年 秋田県の方言訛音矯正の教育上必要なことを認め
発行された
秋田県学務部学務課
秋田書画人伝 井上 隆明
1981/03/20発行
秋田県に関わりのある画家、書家の一覧 加賀屋書店
秋田の画人 秋田魁新報社
1964/04/15発行
1964年までの著名画人集 秋田魁新報社
秋田県俳句年鑑 秋田県俳句懇話会 俳句作家の交流会 秋田県俳句懇話会
秋田歳時記 風早 郷
1980/10/15発行
秋田県の風土に根ざした季語を平易に解説している 無明舎出版
東遊雑記 古川古松軒
1728-1807
東北の風土、風俗 江戸中期
男鹿遊覧記 菅江真澄
17??-1829
男鹿・八郎潟周辺の風土・風俗 辻兵太郎所蔵
石田玲水 宮越郷平
1995/05/10発行
歌人、石田玲水伝 アキタパーク美術館
千田秋田軍記 三浦家代々記から
昭和62年9月
1590年ころに起こった安東家の同族争いについて書かれた軍記。
八郎潟町の高岳山に城を置いた三浦一族について書かれている。
黒川三浦家の歴史を書いた「三浦家代々記」から

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